日本グランプリの歴史の中でポルシェを追いかけ続けた日産【3】日産に立ちはだかるポルシェの壁。そしてバトルは次の世代へ

滝906の抑え役に回った性能で劣る生沢R380(黄色)

       
【2】から続く

市販車に絶対の自信を持っていたプリンスが敗北し、日産として参戦後も常に目標としてきたポルシェ。日産がいかにしてポルシェに追いつき、勝利するに至ったのだろうか。

【特集:日産vsポルシェ 日本グランプリの歴史の中でポルシェを追いかけ続けた日産 vol.3】

 906は、滝の車両に加え、生沢徹と酒井正が新たに入手。台数が増えたこと、ドライバー技量があがったことで、日産にとっては脅威が大きくなっていた。

 果たして、予選で生沢が2分を切る1分59秒43を記録。2番手酒井、3番手高橋国光が2分2秒台だったから生沢1人が抜け出て速く、R380はポルシェに追従するかたちだった。

 興味深いのは、3台が揃ったとはいえポルシェはプライベーター、一方のR380はワークス態勢と、エントラントとしての規模がまるで異なっていたことだ。しかし、現実はプライベーターが駆る市販レーシングカーが、メーカーが総力を挙げて開発したワークスカーの指標になるという、いわゆる逆転現象が起きていた。

 日産は、またしてもポルシェを目標にレースを進めなければならなかったが、906の性能は安定して高く、結局、この1967年のグランプリは生沢906の完勝に終わっていた。

 ちなみに、906は210ps/620kg、R380Ⅱ型は220ps/640kgが一応の性能公表値として上げられていた。レーシングカーのスペックなので、どこまで信憑性があるかは不明だが、数値の上では906とR380は互角と見てよかった。

 1968年日本グランプリは、ポルシェ、R380とも主役の座から降りた。大排気量オープン2シーターのグループ7カーの参加が、認められるようになったからで、日産の主力はR381に移り、R380は支援戦力の立場に回る態勢となっていた。

 一方のポルシェは、プライベーターながらタキレーシングが906の後継となる910を導入。5.5LのR381、3Lのトヨタ7を相手にするには荷が勝ち過ぎるものの、実際にレースが始まると、トラブルなく走る北野のR381を別にすれば、2番手争いを繰り広げたのは生沢の910と黒沢元治のR380だった。

 この時点で2Lのポルシェを相手に進化を繰り返してきたR380は、すでに4シーズン目。Ⅲ型になり完成度を増し、性能も引き上げ、すでに906では相手にならなくなっていた。ちなみに910は、220ps/580kgのレベルにあり、R380の新たな性能指標となっていた。そのR380は、Ⅲ改型として2L最強のレーシングプロトに上り詰めることになる。

 そして69年日本グランプリ。日産はポルシェの存在とは関係のないグループ7カー、6LのR382を開発しグランプリを圧勝する。ポルシェは4.5Lのグループ4スポーツ、最新鋭の917が遠征してきたが、タキレーシングの招へいによるもので態勢は不十分、とても日産ワークスの相手をできる内容ではなかった。

 事あるたびにポルシェと戦い、数字には表れない経験値やノウハウを持つポルシェの底力を感じつつ、ポルシェを倒すために車両開発を続けてきた日産。実はこの関係、十数年後に再び復活する。

 グループCカーのポルシェ956/962Cと、日産Cカーの戦いである。正確を期すなら、ポルシェ対その他多くのグループCカーメーカーと言うべきだろうか。スポーツカーレーシングにおけるポルシェの存在は、それほど大きく絶対的だった。

 強敵として登場したポルシェだったが、結果的には「師」と仰ぐべき存在だったような気がしてならない。

【画像10枚】常に日産の前に立ちはだかるポルシェ。結果的には師と呼べる存在だったのかもしれない



>>第3回日本グランプリ時のプリンスR380Ⅰ改型。性能で劣る生沢R380(黄色)が滝906の抑え役に回り、その間に砂子(赤)がリードを広げる作戦を取った。しかし、スピードで勝る906が給油直前のタイミングで1度トップに立っていた。


【1】【2】から続く


初出:ノスタルジックヒーロー2018年10月号 Vol.189
(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)

日本グランプリの歴史の中でポルシェを追いかけ続けた日産(全3記事)

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tete&photo:Akihiko Ouchi/大内明彦

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