進化を遂げたR380を迎え撃つポルシェ906。繰り広げられた生沢対高橋国光のデッドヒート|日産R380 vs カレラ6(906)【1】

スカイラインGT対ポルシェ904の戦いは、日産R380とカレラ6(906)へと引き継がれた

       
日産、正確にはプリンス/日産とポルシェは、日本のモーターレーシング史において、因縁浅からぬ関係で推移してきた事実を持っている。また日産にとってのポルシェは、ライバルであると同時に手本とする先達でもあった。今回は、その発端となったスカイラインGT対ポルシェ904 の鈴鹿対決を手始めに、両軍のレーシング対決を時系列に沿って紹介していこう。

【特集:日産vsポルシェ 日産R380 vs カレラ6(906)vol.1】

 第3回日本グランプリを組織力で勝ったプリンスR380だったが、車両の性能比較では圧倒的にポルシェ906が上回っていた。当然、プリンス陣営がR380の改良に取り組んだことは言うまでもなく、1967年の第4回日本グランブリに向けて大幅な手直しを行っていた。

 空力特性の全面見直しが大きな課題で、ボディ材質を軽量、高強度、成形の自由度が大きいFRP製に変更。Ⅰ型が採用したアルミパネルは、車両カテゴリーを考えると性能的に不利だった。ただ、当時の空力は解明された確たるものがあるわけではなく、実戦による経験値、風洞実験による対応がその常套手段だった。

 さらに、エンジン性能の引き上げも大きなテーマで、II型に発展した際には220psと、906の210psを上回る水準に引き上げられていた。なお、66年9月に日産とプリンスの合併があり、R380は日産R380となって日産ワークスのドライバーもステアリングを握る態勢へと変わっていた。

 こうした進化を遂げたR380を迎え撃つポルシェ906を、滝に加えて生沢徹と酒井正が入手。プライベーターながらポルシェ連合を形成し、生沢のつながりでバイザッハからメカニックも来日。ノーズリフト対策のフロントスポイラー装着に対応策が見られた。

 レース本番はふたつの大きな山場があったが、ポイントは前半戦に繰り広げられた生沢対高橋国光のデッドヒートだった。追われた生沢がスピンしたが、接近しすぎていた高橋が避けるために大きくコースアウト。再始動に手間取った国光が事実上勝利の権利を失い、復帰した生沢が主導権を握った。

【画像8枚】進化を遂げた日産R380を迎え撃ったのはポルシェ906。レース本番にはふたつの大きな山場があった。


>>最初期型となるⅠ型は、1965年のスピードトライアル仕様。このモデルは第3回日本グランプリ用に改良が加わったR380Ⅰ改型で、906の追撃をかわして優勝した砂子義一車だ。


>>1966年の規定改定に従い、年産50台以上を必要とする市販レーシングスポーツとして開発された906。動力性能、ハンドリング性能が高次元でバランスした優秀な車両だった。


【2】へ続く


初出:ノスタルジックヒーロー2018年10月号 Vol.189
(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)

日産R380 vs カレラ6(906)(全3記事)

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tete&photo:Akihiko Ouchi/大内明彦

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