日本グランプリの歴史の中でポルシェを追いかけ続けた日産【1】スカイラインGTの成功を阻止しようと現れたポルシェ904。その存在がプリンスのレージングカー造りを進化させた

プライベーターながら3台の906と4台の日産R380Ⅱ型が真正面からわたり合った第4回日本グランプリ。信頼性、安定性で勝る生沢の906が勝利した

       
市販車に絶対の自信を持っていたプリンスが敗北し、日産として参戦後も常に目標としてきたポルシェ。日産がいかにしてポルシェに追いつき、勝利するに至ったのだろうか。

【特集:日産vsポルシェ 日本グランプリの歴史の中でポルシェを追いかけ続けた日産 vol.1】

 第1回日本グランプリの開催にあたり、プリンス自動車は、メーカーの直接関与を禁止した取り決めを額面どおりに受け止め、プリンス車で出場したユーザーに対してこれといった支援もせず、メーカーとして傍観する立場をとっていた。

 それというのも、自社製品の性能に絶対の信頼を置き、市販状態で他車の追従を許さないという自信を持ち、走ればウチが勝てるという確信にも似た思いがあったからだ。

 ところが、いざフタを開けてみるとサーキット走行に合わせて数々の調整や最適化を行った他社の参戦車両が好成績を残し、プリンス車はまったく振るわない事態となっていた。メーカーの直接参戦は禁止されていたが、メーカーが手掛けた車両をプライベーターに貸与するなら問題ないだろう、という判断のもとに各社が動いたからだ。

 第1回日本グランプリは、日本初の本格的な自動車レースがいったいどんなものかを、世の中に知ってもらうためのお披露目興行、エキシビション的な意味合いが強かった。

 基本性能に優れているから勝てると考えていたプリンスにとって、第1回日本グランプリでの不発は痛かった。その反動が、第2回日本グランプリの参戦態勢となって表れた。

 ワークスチームを結成し、T‐Ⅴクラス(1300〜1600cc)にスカイライン1500、T‐Ⅵクラス(1600〜2000cc)にグロリアを送り込み、それぞれ1〜8位、1、2、4位と上位を独占。まともな態勢ならば、やはりうちがいちばん速い、と自信のほどをのぞかせた。

しかし、スカイラインGTを開発して臨んだ本命のGT‐Ⅱクラスは、ポルシェ904の登場によって2〜6位と惜敗。この結果は、惜しかったというより、ツーリングカーでレーシングカー相手によく健闘した、という好意的な見方のほうが多かった。

もちろん、当のプリンスも、スカイラインGTの敗戦は痛手だったが、技術陣が「自分たちもあんなクルマ(904)を造ってみたい」という思いに駆られたというから、どこまでも技術志向の強いメーカーだった。

 この思いが、日本初のレーシングプロト、プリンスR380の誕生につながるわけだが、もし第2回日本グランプリで、スカイラインがポルシェ904に勝っていたら、R380は誕生したのだろうか、と考えたことがある。

 プリンスはもともと航空機メーカーである。それが戦後航空機産業が禁じられたことで自動車メーカーとなり、その人材も自動車メーカーに流れた。とりあえず第2回日本グランプリのため、量産車改造のスカイラインGTは造ったが、その戦績にかかわらず、904を目にした瞬間、レーシングカー造りに対する思いが沸々と沸き上がったことは想像に難くない。

 それにしても、スカイラインGTの成功を阻止しようとしたライバルメーカーが、なぜポルシェ904を選んだのか、1960年代前半のスポーツカー分布に目を移してみると事情が分かる。

【画像10枚】第一回日本グランプリの敗戦から、プリンスのレージングカー造りに対する思いが沸き上がった



>>69年日本グランプリに来日したポルシェ917。デビッド・パイパーの個人車だったが、ドライバーにジョー・シフェール、ディレクターのリコ・ステイマンも帯同するワークスメンバーだった。準備も態勢も不十分ながら、一時トップを走った。

【2】へ続く


初出:ノスタルジックヒーロー2018年10月号 Vol.189
(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)

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tete&photo:Akihiko Ouchi/大内明彦

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