日本グランプリの歴史の中でポルシェを追いかけ続けた日産【2】空輸で登場! 904を指標に開発されたR380に立ちはだかったのは、さらなる強敵であった

DC-8のカーゴ便で空輸されてきた滝進太郞のポルシェ906。強敵、海を渡り来たる

       
【1】から続く

市販車に絶対の自信を持っていたプリンスが敗北し、日産として参戦後も常に目標としてきたポルシェ。日産がいかにしてポルシェに追いつき、勝利するに至ったのだろうか。

【特集:日産vsポルシェ 日本グランプリの歴史の中でポルシェを追いかけ続けた日産 vol.2】

 スカイラインGTが参戦したクラスはGTクラスで、本来参戦すべきTクラスではなかった。これは生産台数によるホモロゲーションの問題で、第2回グランブリ参戦時はスポーツカーと同じGTクラスに区分されたためだ。

 さて、このGTクラスでスカイラインGTと同じ2Lまでのモデル、さらにスカイラインGTに勝てそうなモデルでなおかつ市販(手に入る)モデルを世界視野で探してみると……。

 実は当時、2Lクラスの有力なスポーツカーがなく、それこそ唯一と言ってよいレーシングスポーツがポルシェだったのである。そのポルシェの64年モデルが904だった。

 ちなみに1963年の当該モデルは、カレラ2000GSや718/8となる。第2回日本グランプリへの参戦を考えると、戦闘力や入手の可能性を含め、904が最も現実的な選択肢だったのである。期せずしてスカイラインGTは、当時2Lクラス世界最強のモデルと競い合うことになったわけである。

 そしてこの904に完敗。904の性能を考えれば、むしろ善戦したと言っていいスカイラインGTが、敗戦ながら市場で話題になったことは、クルマ好きにとっては当然のことだった。

 こうした経緯で開発されたR380が、904をひとつの指標にしたことは当然の話で、1965年開催予定の第3回日本グランプリに間に合わせるため、急ピッチで開発が行われた。

 実際には、1965年の日本グランブリは中止され、翌66年に新設の富士スピードウェイで開催されることが決まり、それに向けての車両開発が進められた。実際、R380の日本グランプリ仕様車(Ⅰ改型)は、試行錯誤を繰り返しながら2分3秒台のラップタイムを記録するまでに熟成され、5月3日の決勝レースを迎える状態だった。

 しかし、ここでまた新たな強敵が出現した。滝進太郎がポルシェの最新モデル、906でエントリーしたのである。906は904の後継にあたるグループ4スポーツで、純レーシングカーとして設計されていた。

 とくに904の性能だけに照準を合わせていたわけではなかったが、R380にとっては想定する相手の実力レベルが一段上がり、またしても苦戦が予想される出来事だった。

 実際、レース前半、プリンスはチームプレイで滝の906をうまく抑え込んだが、自力に勝る906が抜け出しトップに立った。こうした状況でもプリンスが勝てたのは、給油のためのピットワークの成功と、焦った滝進太郎の自滅によるものだった。

 レースには勝ったが、マシンの内容で負けるかたちとなったR380は、次の第4回日本グランプリに向けて大改修を受けた。空力特性の見直しを主体にエンジン出力の向上など、問題と考えられる個所すべての対策を行ったことで、名称こそⅡ型だったものの、内容面は激変と言える状態だった。

 Ⅱ型は1967年の第4回日本グランプリ参戦車両として開発が進められ、2月のシェイクダウンではいきなり2分3秒を記録。直進安定性の不良など細かな問題はいくつか発生したが、それぞれ個別に対応することで解決。ポルシェ906と遜色のない性能レベルに達したような印象があった。

【画像10枚】904を指標に開発が進められたR381だったが、エントリーされたのはさらに1段上の強敵だった


>>69年日本グランプリでランデブー走行を見せる917と908スパイダー。田中健二郎の908はパイパーの917より速かった。


>>68年日本グランプリを制した北野元のR381。信頼性に乏しい5.5LシボレーV8の回転を上げずに走っての勝利だった。



【2】へ続く


初出:ノスタルジックヒーロー2018年10月号 Vol.189
(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)

日本グランプリの歴史の中でポルシェを追いかけ続けた日産(全3記事)

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tete&photo:Akihiko Ouchi/大内明彦

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