ハコスカGT-Rレーシングがついに目標性能に到達! GT-R伝説の始まり|1969年式 日産 スカイライン 2000 GT-R 1969 JAFグランプリ優勝車(篠原孝道号)仕様【2】

外観はフロントグリルやリアバンパーを取り外した程度でほぼノーマルに近い。わずかにフロントオーバーフェンダーの装着が目立つ程度だ。

       

【1】より続く

【1969年式 SKYLINE 2000 GT-R 1969 JAFグランプリ優勝車(篠原孝道 号)仕様vol.2】

12月の初走行後、そこで得られたデータをもとに開発を進めたが、次にGT-Rが富士に持ち込まれたのは2月上旬だった。パーツが間に合わなかったり、悪天候に災いされたためだ。

タイムは2分15秒台に向上したが、5000rpm台にトルクの谷があり、共振によるプロペラシャフトの振動というやっかいな問題が判明した。この問題は、吸排気管長を変え、いく通りかの組み合わせを試す、手間と時間を要する試行錯誤の作業が要求され、結果的にグランプリまでに解消できず、このことが苦戦の原因につながった。

さらに、エンジンやデフの油温上昇、トランスミッション・リアエクステンション部の亀裂発生なども大きな問題となり、早急な対策が必要だった。

また、谷田部試験路を使って空力特性のチェックも実施。アンダーカバーの装着で最高速は伸びるが、エンジンルーム内の熱抜きが悪くなり、出力が影響を受ける事実も確認された。

こうした開発作業を経て、3月上旬に行った富士テストでは2分11秒7までタイムは向上。さらに、軽量パーツを組み込んだ1週間後のテストでは2分10秒4を記録。当初の目標だった2分10秒の性能に到達し、開発陣としてはひと安心できる状態となった。

【画像19枚】目標の性能を目指すべく研究開発を重ねて開発されたレース仕様のハコスカ

逆に、大きな問題となってきたのがドライバーの選考だった。大会規定によりT/GTレースに参戦可能なドライバーが限られた。過去のグランプリで表彰台に立ったドライバー、別の言葉に置き換えれば、プロの参戦は許されなかった。前年の68年日本グランプリから適用された規定で、日産は都平健二、田村三夫を搭乗させるという巧みな抜け穴(?)を見つけ出していたが、今回はそれもかなわなかった。

SCCN、PMCSのクラブ員から有能な人材を選び、彼らにワークス仕立てのGT-Rを任せる以外に手立てはなかった。そして、GT-Rを使った富士スピードウェイでの選考会を通して選ばれたのが、藤田皓二、萩原裕、篠原孝道、長村瑞臣、ロバート・レイガンの5名だった。

この5人は、GT-Rで富士スピードウェイを走り込み、4月の時点で、2分13秒後半から2分14秒前半のタイムをマークするようになっていた。なお、このときワークスドライバーがマークした平均ラップタイムは2分11秒5。まだ2秒以上の差があった。


>>JAFグランプリ当時の出力はおよそ200ps前後だったという。開発当初の目標値は230psだったが遠くこれに及んでいなかった。S20型はGR8型のスペックをもとに量産型として新たに設計されたエンジンで、ブロックやヘッドの強度、剛性がGR8型とは異なり、これが出力向上に際してネックとなった。



>>ウエーバーキャブレターを3連装したが、この仕様は9月までで、10月の日本グランプリ時にはルーカス製機械式燃料噴射装置に換装されていた。



>>この車両は復元車でメーター回りはレース仕様車と同等ではない可能性が高い。内装は市販GT-Rのままだと思われる。


【3】に続く

初出:ノスタルジックヒーロー 2019年2月号 vol.191
(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)

1969年式 SKYLINE 2000 GT-R 1969 JAFグランプリ優勝車(篠原孝道 号)仕様(全3記事)

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text:Akihiko Ouchi/大内 明彦 photo:Motosuke Fujii/藤井 元輔

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