1950年代のクルマ事情【2】海外メーカーからの技術の旧車などもあり、国産4輪自動車が急成長

たま自動車と富士精密工業が開発したプリンス・セダン。後に誕生するプリンス自動車工業の社名の由来にもなった

戦後間もない時期、復興に活躍したオート三輪から路上の主役を奪っていったのが50年代に入って登場したクルマたちだ。今も残る大メーカーから、忘れられた中小メーカーまで、当時活躍した各社のクルマを振り返ってみよう

【1950年代のクルマ事情vol.2】

独自路線にこだわるトヨタは、戦前に販売していたAC型セダンの再生産を47年に開始した。これに続いて発表したのが、進歩的な四輪独立懸架のサスペンションを採用したSA型セダンだ。このときニックネームを公募し、採用されたのが「トヨペット」である。

日産は乗用車の生産禁止令が解けるのを待ち、ダットサン・スタンダードセダンDAを発表した。デザインは乗用車だが、シャシーはトラックの木の骨組みだ。生産台数は微々たるものだったが、政財界は日本を復興させるためには国産乗用車を開発し、育てていく必要があると判断し、通商産業省(通産省=現・経済産業省)は先進国から乗用車の生産などの技術を学ぶように、と各メーカーに通達を出している。

日産は戦前からイギリス式のクルマづくりにあこがれ、技術面でも参考にしていた。そこで52年12月にイギリスの名門、オースチン社と技術提携を結び、高い技術力を吸収しようとしている。日本で最初にノックダウン(現地生産)を行ったのは、A40サマーセットサルーンだ。1.2Lの1G型4気筒OHVを積み、12ボルトの電装品も採用した。また、合理的な設計のリアアクスルやダブルウイッシュボーンとリジッドアクスルのサスペンションなども日産のエンジニアを驚かせている。

54年4月、A40の後継となるオースチンA50ケンブリッジサルーンの生産を開始した。正統派の4ドアセダンで、モノコック構造のボディはひと回り大きい。エンジンは1.5Lの直列4気筒OHV、サスペンションはダブルウイッシュボーンとリーフスプリングによるリジッドアクスルだ。

また、日産はオープンカーとスポーツカーにも早い時期から興味を示した。記念すべき戦後初のオープンカーとなったのは、イギリスのMG製オープンカーを手本に生まれたダットサン・スポーツDC-3だ。新型スリフトのシャシーにオープンの2ドアボディを被せている。エンジンは860ccのD10型直列4気筒サイドバルブだ。

DC-3は52年1月に登場したが、その開発には経験豊富な高速機関工業が力を貸している。59年1月にFRPボディのS221、ダットサン・スポーツカーへと発展。61年秋にはSP310と呼ばれるフェアレディ1500にバトンを託した。

【画像7枚】独自路線を貫くトヨタから、海外の技術を取り入れた日野まで、国産メーカーの成長。


初出:ノスタルジックヒーロー 2019年 8月号 Vol.194

(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)


1950年代のクルマ事情(全4記事)

関連記事:1950年代の旧車たち

【3】に続く

TEXT:HIDEAKI KATAOKA/片岡英明 PHOTO:いすゞ自動車株式会社、日産自動車株式会社/トヨタ自動車株式会社

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