ロータリーエンジンの歴史は、モーターレーシング活動と表裏一体| 「ロータリーの語り部」松浦國夫さん、創成期のレーシング活動を振り返る Vol.1

「ロータリーの語り部」松浦國夫さん、創成期のレーシング活動を振り返る Vol.1

       
東洋工業(現・マツダ)に入社以来、ロータリーエンジンひと筋、それもほぼレーシングロータリーの開発に専従してきた松浦國夫さんに、活動初期の話を2017年にうかがった。そのお話を4話構成でお伝えする。ロータリーエンジンの開発が紆余曲折の連続だったことはよく知られるとおりで、モーターレーシングは性能の極限領域を確かめる目的で積極的に活用された。しかし、すべてが未知のエンジン。通常では思いもよらぬことが、当たり前のように起きていたという。

【「ロータリーの語り部」松浦國夫さん、創成期のレーシング活動を振り返る Vol.1】

 自らを「ロータリーの語り部」と名乗る松浦さん。広島人に「語り部」と言われると、なぜか耳を傾けざるを得ない気持ちにさせられる。

 自動車工業界におけるロータリーエンジンの存在は、日本、もっといえば広島・マツダが実現させた特異なものだ。詳細な事情を知る人以外、その事実を後世に残すことは難しい。松浦さんが自らを語り部と位置付けるのは、こうした思いが強いからにほかならない。

 マツダ入社と同時に、ロータリーエンジン開発部門に配属された松浦さんにとって、その半生はロータリーエンジンそのものだった。実用化までの紆余曲折は、ロータリー四十七士に代表される諸々のエピソードでよく知られるとおりだが、松浦さんのおもしろい(失礼!)点は、レーシングロータリーひと筋だったことにある。


>>【画像11枚】787B用R26B型4ローターエンジンなど


 もっとも、ロータリーエンジンの歴史は、モーターレーシング活動そのものと言い換えてもよいほど表裏一体の関係にあったから、このエンジンに関しては、レース活動を知ることがロータリーエンジンの理解につながる、と言い換えてもよいだろう。

「やはり原点は、コスモスポーツによるニュルブルクリンクでの84時間レースです。とにかくロータリーは未知のエンジンでしたから、生産車の耐久目標は50万kmとしていました。どう考えても過剰品質なんですが、何があるか分からないから、とにかく耐久性は十分見込んでおこう、ということです。ちなみにニュルブルクリンク用は1万kmを想定しました。84時間、つまり3日半で1万kmを想定しておけば間違いない、ということです。コスモのレース用エンジンはスプリント用で200ps 以上ありましたが、シミュレーションをして安全マージンを加えていったら128psになりました。かなりのディチューンですね」

 マツダがロータリーエンジンのPRの場として選んだフィールドがモータースポーツだった。華々しい活躍で目を引こうという意図も含まれていたが、極限的な状況でエンジンを使い、その信頼性、耐久性を世に知らしめようという意味が強かったようだ。

「幸か不幸か、エンジン自体が壊れたことはありませんでした。補機類、たとえば金属製のオイルパイプが振動で破損する、といったトラブルなどですが、当時は上司から、10万km走っても壊れないエンジンを作れ! と言われたものです。しかし、こうしたことの積み重ねがロータリーエンジンを熟成させていったわけですから、モータースポーツへの参画がロータリーを育てた、と言い換えてもよいでしょう」

 決してスピードの優劣を競うためだけにレースに参加したわけではない、と松浦さんは強調する。むしろ、マツダにとっては「走る実験室」の意味あいの方が強かったことになる。



>> 1968年、実用化に成功したロータリーエンジンの性能と信頼性をアピールする場として、マツダはニュルブルクリンク84時間レースに参戦。総合4位に入賞する健闘を見せた。


【2】に続く

初出:ノスタルジックヒーロー 2017年8月号 Vol.182
(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)

「ロータリーの語り部」松浦國夫さん、創成期のレーシング活動を振り返る(全4記事)

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text:KEISHI WATANABE/渡辺圭史 photo:Mazda Motor Corporation/マツダ

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