意のままに操ることができるクルマこそが、安全なクルマであると信じていた。予防安全技術をいち早く導入|櫻井眞一郎フィロソフィー、とは

櫻井さんは、意のままに操ることができるクルマこそが、安全なクルマであると信じていた。

       
93年前、1929年4月3日は、スカイラインの育ての親として、その名を知られる櫻井眞一郎さん生誕の日。
2011年1月に逝去されたが、今なお、スカイラインと櫻井さんのかかわり方は、まさに神話として語り継がれている。その理由の一端をここで紹介する。

【櫻井眞一郎フィロソフィー、とは Vol.2】

【1】から続く

 日産と合併して最初の作品となった3代目のC10がマイナーチェンジで選んだキャッチフレーズが、「愛のスカイライン」だ。名うてのコピーライターと広告代理店のアートディレクターが提案した「愛」のストーリーを櫻井眞一郎さんは気に入り、好んで使うようになった。自動車は冷たい鉄の乗り物だが、これを動物好きの櫻井さんは血の通った乗り物へと高めたかったから採用したのである。

 櫻井眞一郎フィロソフィー(哲学)の原点は「愛」だが、ハード面では多くのアイデアを盛り込んだ。航空機系出身のエンジニアは、安全を第一に考えて手堅い設計方針を取る。だから中島飛行機、立川飛行機を母体とするプリンス自動車の先輩エンジニアたちは石橋をたたいて渡る設計を心がけていた。信頼性を重視したのである。

 が、戦後に自動車エンジニアとなった櫻井さんは違う。先輩の安全第一主義を受け継ぎながら、持ち前の好奇心をあらわにし、多くのアイデアをスカイラインに注入している。血の通ったクルマづくりとともに目指したのが走りのいいファミリーカーだ。櫻井さんは、意のままに操ることができるクルマこそが、安全なクルマであると信じていた。

>>【画像10枚】櫻井眞一郎さんにスポットを当て、スカイラインを語らせていく手法をとった、1972年9月に日産自動車/日産プリンス自動車販売の連名で発行された小冊子「新型スカイラインのすべて」から転載など

 重視したのは、事故などの異常事態を未然に防ぐ、予防安全技術だ。最近はアクティブセーフティーと呼ばれ、多くの人たちに知られるようになった。この安全思想を櫻井さんは50年以上も前から強く意識し、スカイラインを設計していたのである。走る、曲がる、止まる、この3つの基本を押さえたクルマは、ユーザーにとって安全なのだと信じていたからだ。
 櫻井さんが設計したクルマはスカイラインに限らず、動物の動きを手本にしている。動物のように、意のままに、気持ちよく走ることを心掛けて設計した。そのために多くのアイデアを盛り込んだ。彼が理想としたのは、何度も語られているようにチーターやサラブレッドなど、速く走る動物のしなやかな脚の動きである。

 生前、櫻井さんは多くの動物から後輪駆動、FR方式の素晴らしさを学んだ、と語っていた。安全で走りのいいクルマを生み出すため、櫻井さんは妥協を許さなかった。また、いいものであると分かれば、積極的に採用している。その代表が、今では常識となっている減衰力調整式のアジャスタブルショックアブソーバーや4輪操舵システムのハイキャスだ。
 最後の7thスカイラインのときは、ターボが生み出すハイパワーと強大なトルクを確実に支配下に置くために、時代に先駆けてフルタイム4WDにも興味を示している。



2006年10月に撮影され、エス・アンド・エスエンジニアリングの社葬でも使用された櫻井眞一郎さんのポートレート(撮影 : 藤牧功カメラマン)。


 1957年4月、プリンス自動車工業は新型車プリンススカイラインを発売した。それから60年、今なおスカイラインは日本を代表する乗用車として、人々の心をつかんでいる。今回のスカイライン特集「至高のスカイライン」では4代目C110、3代目C10、2代目S50系、そして初代ALSIの各モデルを掲載。それぞれ個性的な個体を集めて、モデルごとの魅力を改めて探ってみることにした。クルマ好きはなぜ、スカイラインにひかれるのだろう。

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【3】に続く

初出:ノスタルジックヒーロー 2017年2月号 Vol.179(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)

櫻井眞一郎フィロソフィー、とは(全3記事)

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【1】【2】から続く

text:HIDEAKI KATAOKA/片岡英明 Photo : KAZUHISA MASUDA/益田和久 KIYOSHI ICHIKAWA/市川 潔 MAKOTO INOUE/井上 誠 Inuduka Naoki/犬塚直樹

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