グループA スカイラインGTS-R【3】グループA対策を施したエボリューションモデル「スカイラインGTS-R」|国内モータースポーツの隆盛 第18回

1988年シーズンに熟成を進めたGTS-Rは、1989年シーズンに4勝(リーボック3勝、カルソニック1勝)を挙げ、長谷見/オロフソン組がドライバータイトルを獲得。エボモデルの投入によって勝ち取ったタイトルだけに大きな意味があった


当時のグループA公認条件は、連続した12か月間に最低5000台以上を生産実績を持つことだったが、その1割にあたる500台以上を生産すれば、チューニング仕様(エボリューションモデル)での公認取得が可能、という一文が設けられていた。

 もっとも、この規定は高性能市販モデルの開発・量産が可能な余力ある企業に有利な条件で、案の定、真っ先に手を挙げたのはツーリングカーレースの老舗、ヨーロッパ・フォードとBMWだった。フォードはシエラコスワースRS(すぐにRS500に発展)、BMWはM3を作り上げ、参戦と同時にグループA1クラス(シエラ)とA2クラス(M3)を席巻する力の違いを発揮。

 パーツ追加公認制度で戦闘力を作り上げていた第一世代のグループAカーは、軒並み戦闘力が消失。ベース車両の段階でグループA対策を施したエボモデルと格の違いは決定的だった。このシエラ、M3が採用したエボモデルを、日本車で初めて実行したモデルがスカイラインGTS-Rだった。

 開発担当者の言葉を借りれば、開発時間がなくやれることに限りはあったが、エンジン回りを中心に大径タービン、大容量インタークーラー、専用エキゾーストマニフォールドなどを装備し、空力パーツの追加などと合わせ、グループAレースでより有利に戦えるメカニズムを装備した、となる。
もちろん、その狙いはフォード・シエラの追撃にあったが、日本のモータリゼーション史から見れば、レースのために自動車メーカーが本腰を入れたという意味で大きな価値があった。

 GTS-Rのデビュー戦は87年インターTEC。リコーカラーに塗られたGTS-Rに星野一義/アンダース・オロフソンを投入。オロフソンといえば、ボルボを操りスカイラインを子供扱いした張本人である。理論的で理知的なドライビングには定評があり、その後しばらく日産の主力を務めた人材だ。
 このレースには、フォードワークス(エッゲンバーガー)がテキサコカラーのシエラRS500、BMWワークス(シュニッツァー)がM3を持ち込み、結果的にこの2車種で上位8台を独占した。が、ワークス勢を相手に2位に食い込んだ長坂尚樹/アンディ・ローズ組トランピオ・シエラの活躍は、ヨーロッパ勢を驚かせるのに十分だった。

 注目されたGTS-Rは、アクシデントもあって中団での完走に終わったが、存在感のアピールを狙って5番手の予選タイムを叩き出した意地は、その後の可能性に大きな期待を持たせていた。まさに、日産がシエラ、M3のエボモデル勢に対し、同じ土俵に上がって真っ正面から挑戦状を突き付けた瞬間、と言ってよかった。

 GTS-Rは、翌88年シリーズから本格参戦。開幕戦から車両の準備が整ったのはニスモ車のみだったが、オロフソン/亜久里組が開幕2連勝。第2戦からカルソニック(和田/北野元)、リーボック(長谷見/高橋健二)、ヂーゼル機器(関根基司/都平健二)と台数が増え、終わってみればニスモ車がシリーズ2位を獲得。熟成の年だったが、とくに懸念のあったエンジンの仕上がりがレースごとに良化を見せていったことが大きな収穫だった。

 そして89年。チェリー以来「ハコレース」から遠ざかっていた星野が復帰。シエラ対GTS-Rの戦いに加え、長谷見、星野の頂上対決もポイントとなるシーズンとなった。
 それにしても、メーカーが本腰を入れるとさすがにその底力は強大で、あれほど強かったシエラが全6戦中で2勝しか挙げられず、しかもその1勝はインターTECでのフォードワークスだったから、シリーズの主導権は完全に日産が握っていたことになる。

 なかでも、特筆すべきは長谷見/オロフソンのリーボックスカイラインで、第3戦の筑波から第5戦の鈴鹿まで3連勝。これがドライバータイトル獲得に直結したが、GTS-Rは星野/北野カルソニックの1勝も加えて4勝したものの、メイクタイトルはフォードが獲得。

 生産社のタイトルが重要視されるグループAレースであるだけに、日産としては大きな心残りとなったが、果たせなかった願いは、翌90年登場の新鋭GT-Rに託されていた。

>> 【画像13枚】目には目を、エボにはエボを! 本格反抗を開始したハコの伝説。グループAスカイラインGTS-R

【1】を読む

日本勢で真っ先にシエラを導入したのはトランピオ・チームだった。第2戦の西仙台戦でデビューするといきなり2位を獲得。第3戦筑波、第6戦鈴鹿を制してシリーズ2勝。導入当初はRSだったがインターTECからRS500に車両を変更した。
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シーズン序盤戦はBMW635で戦っていたオートテック・チームは第4戦菅生からM3に変更。中間排気量(1601〜2500cc)の2クラスに移行したが、潜在能力の高さを生かしデビュー戦ながら総合2位、クラス優勝を勝ち取っていた。
>> シーズン序盤戦はBMW635で戦っていたオートテック・チームは第4戦菅生からM3に変更。中間排気量(1601〜2500cc)の2クラスに移行したが、潜在能力の高さを生かしデビュー戦ながら総合2位、クラス優勝を勝ち取っていた。

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1988年シーズンに熟成を進めたGTS-Rは、1989年シーズンに4勝(リーボック3勝、カルソニック1勝)を挙げ、長谷見/オロフソン組がドライバータイトルを獲得。エボモデルの投入によって勝ち取ったタイトルだけに大きな意味があった。
>> 1988年シーズンに熟成を進めたGTS-Rは、1989年シーズンに4勝(リーボック3勝、カルソニック1勝)を挙げ、長谷見/オロフソン組がドライバータイトルを獲得。エボモデルの投入によって勝ち取ったタイトルだけに大きな意味があった。


ツーリングカーレースとは縁のなかったインパル星野一義は、88年に和田孝夫/北野元でJTCシリーズに参戦。翌89年は星野自らが北野と組んで全戦に参加。第2戦の西仙台戦で待望の初勝利を挙げていた。写真は富士インターTEC時のピットサービス。
>> ツーリングカーレースとは縁のなかったインパル星野一義は、88年に和田孝夫/北野元でJTCシリーズに参戦。翌89年は星野自らが北野と組んで全戦に参加。第2戦の西仙台戦で待望の初勝利を挙げていた。写真は富士インターTEC時のピットサービス。

>> 【画像13枚】目には目を、エボにはエボを! 本格反抗を開始したハコの伝説。グループAスカイラインGTS-R

初出:ハチマルヒーロー vol.45 2018年 1月号 
(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)

国内モータースポーツの隆盛 第18回グループAスカイラインGTS-R(全3記事)

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TEXT : AKIHIKO OUCHI/大内明彦 COOPERATION : Fuji International Speedway Co.,Ltd. / 富士スピードウェイ

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