NISMOの設立、VG30を導入した中期の日産【2】LZ20型ターボからFJ20型ターボを経てVG30型へ|国内モータースポーツの隆盛|グループCカー時代の到来

1985年のWECにVG30型ターボで臨んだ日産勢。サインガードでチームの作業を見守るドライバー陣。右から萩原光、星野一義、1人おいて松本恵二。背中を向けているのはホシノレーシングのマネージャー金子豊。

       
いざフタを開けてみたらポルシェがあまりにも強すぎた。マシン性能が不十分であり態勢も整っていない。
JSPCに臨んだ日産はすべてを見直さなければならない状況に追い込まれていた。
NISMOの設立、VG30型ターボエンジンの導入と歩を進めてみたのだが……。

【 NISMOの設立、VG30を導入した中期の日産 Vol.2】

【1】から続く

 モータースポーツ専業企業のニッサン・モータースポーツ・インターナショナル、すなわちNISMO(ニスモ)の設立は1984年9月。レース界の流れで言えば、JSPCが始まって2シーズン目の途中、グループAレース(JTC、全日本ツーリングカー選手権)が翌年から始まるタイミングだった。

 組織構成は、大森分室を主体としたが、追浜の特殊車両課(実験課)が加わったことで、車両開発からレース参戦、ユーザーサービスまで、一体化した組織で対応できる体制が整った。

 ニスモの舵取りをする初代社長として着任したのは難波靖治。戦後日産モータースポーツ史の起点となる1958年の豪州ラリー参戦を企画し、自らも実験課員としてダットサン210富士号を走らせクラス優勝、その後はサファリラリーのプロジェクトを推進、成功に導いた人物で、ニスモ社長職は適材適所、うってつけの人事だった。

 難波はニスモの創設にあたり、現状抱える最も大きく、かつ問題のあるグループCプロジェクトの改善策として、VG30型V6ターボエンジンの導入を決断。LZ型は基本設計が古く、排気量も最大2L級までと、出力性能と燃費性能が同時に問われるグループCカー用エンジンとしてはかなり不適格で、これに代わる新エンジンの投入が急務となっていた。

 VG型のコンペティションエンジンは、日本ではなく北米で実績を挙げていた。IMSAラウンドに投入されるフェアレディZもこのエンジンで走っていたが、プロトタイプカー用としてエレクトラモーティブ社が開発したVG型に注目したのである。


>>【画像14枚】星野は1983年のJSPC参戦時よりマーチシャシーを使用。1983年には83G、1984年には84Gを導入。そしてVG30型投入となった1985年は85Gを入手。スポンサーのニチラ(日本ラジエター)はカルソニックから、カルソニックカンセイとなり、マレリに


 使用ガソリン量が制限されるグループCカー規定では、一概に大排気量エンジン有利とも言えなかったのだが、小排気量エンジンを高過給圧で使うリスクを考えれば、3L級の6気筒エンジンというのは大きな魅力だった。実際、王座に君臨していたポルシェのエンジンは2.65Lで、VG30型の選択はいい点を突いていた。

 ちなみにニスモは、1985年シーズン初頭、これまで使わなかったFJ20型ターボを実験的に投入したが、結果的にVG30型移行までの暫定措置となっていた。出力性能、燃費性能、耐久性など総合性能で見た場合、量産設計のFJ型はLZ型と比べてもCカー用としては不向きなエンジンだった。



> 1986年R380以来の念願だったル・マン参戦を果たした日産は、R86V(マーチ86G星野組)とR85V(マーチ85G長谷見組)を持ち込み、長谷見組(写真)が総合16位で完走。完走率が40%前後の時代だったから、完走のハードルがかなり高かったことを思い知らされる。





> 1986年富士1000kmのスターティンググリッドにて。3年続いたコカコーラカラーからアパレルメーカー、タカQカラーに代わった柳田ローラ。コンビを組む中川隆正とレース展望を話し合う。





> 富士500マイルからのひとコマ。ダンロップトヨタ86Cとやり合う。


【3】に続く

初出:ハチマルヒーロー 2016年 1月号 vol.33
国内モータースポーツの隆盛〈第7回〉|グループCカー時代の到来 その3 
(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)

NISMOの設立、VG30を導入した中期の日産(全3記事)

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【1】から続く

text & photo : AKIHIKO OUCHI / 大内明彦

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