市販されなかった童夢‐零が「生んだ」ル・マンへの軍資金|1983年式 AUTOBACS DOME RC-83 Vol.2

全長6kmのロングストレート「ユーノディエール」を持つル・マンの攻略ポイントは、最高速と考えていた林みのるは、低く幅の狭いモデルを強く意識していた。空気抵抗の小さな車両を目指したが、RC-83の頃になると、それは旋回性能の低下につながり必ずしも得策ではないことに気がついたという。

       
ホンダS800のシャシーにFRPボディを架装する「マクランサ」。そのプロジェクトが落ち着いたところで、林みのるは一時レースの現場から遠ざかる。再び自動車作りの世界に戻ったとき、林の視線はスーパーカーに向いていた。童夢を創設し、市販化に向けて歩を進めていたが、ル・マン挑戦企画が持ち上がるとその誘惑に負け、再びレースの世界に。1979年に童夢-零RLでル・マンデビューを果たすと、後は一気にレースの深みへと突き進んでいった。

【1983年式 AUTOBACS DOME RC-83 Vol.2】

【1】から続く

 それにしても、後に林も述懐しているが、レーシングカーより市販スポーツカーのほうが手掛けやすいと考えたのは、血迷う以外の何ものでもなかった、と振り返っている。

 確かに、法的な手続きもなく、極端に言えばワンオフでも済まされるレーシングカーに対し、さまざまなレギュレーションをクリアしてやっと市販にこぎつけられるスポーツカーとでは、開発資金や背負い込むリスク、責任がまったく違っていた。

 もっとも、童夢‐零は市販されなかった代わりに、玩具メーカーや模型メーカーからの商品化話が相次ぎ、大小含めて100社以上との契約により、童夢に億単位の金額をもたらした。そして、これがル・マンプロジェクトの軍資金に化けたのである。

 余談だが、童夢‐零の開発にあたり、林はデザイン担当として由良拓也を起用していた。レースの世界は広いようで狭く、後に日本のモータースポーツ界を担う著名な人材が、この頃は意外なところで仕事をしている場面にしばしば出くわすことがある。


よく見ると平面でなく、後方に向かってテーパー状に絞り込まれているボディ側面形状など【写真9枚】


 さて、林にP‐2プロジェクトを忘れさせたル・マンカーだが、これが童夢初の本格的レーシングカー、グループ6プロトの童夢‐零RLだった。

 当時のル・マン、スポーツカー世界選手権は、排気量3Lのグループ6規定で戦われていた(年により3Lプロト枠がグループ5となることもあり、カテゴリーが流動的な時期だった)。

 ターボエンジンの使用も可能で、当時王者として君臨していたポルシェ936は2.14L水平対向6気筒エンジン(ターボ係数1.4)を使っていた。もちろん自社製エンジンを持たない童夢の場合は、市販用エンジンメーカーに頼らざるを得ず、10年以上もF1で実績を積み重ねてきたコスワースDFVを選択した。

 童夢はRLを2台準備して1979年のル・マンに初参戦したが、新参者には厳しいル・マンの常で、2台ともあえなく潰れていた。翌1980年は資金の問題からRL‐80、1台で臨んだが、序盤のギアボックストラブルにもかかわらず、修復後の再走で最下位ながら25位完走。ル・マン史上、日本車初の完走となっていた。

 1981年はRL‐81、1982年はRC‐82を開発して参戦したが、いずれも体制が不十分だったこともありリタイアに終わっていた。
(文中敬称略)



他車との比較ではないので分かりにくいかもしれないが、かなりタイトなキャビンスペースであることが分かる。RLに始まる小型コンパクト思想の名残が感じられるコクピットだ。





サイドウインドーに設けられたドライバー冷却用(! )のエアインテーク。当時JSPC戦が開催された富士、鈴鹿は、いずれも夏場の猛暑には定評があった。熱抜きの悪い狭いコクピットは温度が上がったことだろう。


【3】に続く


初出:ノスタルジックヒーロー 2015年 12月号 vol.172(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)

1983年式 AUTOBACS DOME RC-83(全3記事)

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text : AKIHIKO OUCHI/大内明彦 photo : MASAMI SATO/佐藤正巳、AKIHIKO OUCHI/大内明彦

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