クラッシュ! 4回の手術から奇跡の回復。大坪善男伝説|レーシング・ドライバー大坪 引退の顛末 Vol.1

大坪善男は元チームトヨタのワークスドライバーでトヨタスポーツ800、トヨタ2000GT、トヨタ7を駆り数多くの優勝、入賞したことで有名だ。引退後には元チームトヨタのメンバーだった大坪だからこそできた映像作品を作る。自分のレースの経験を生かしたドラマやドキュメンタリーは他の追随を許さない。豊富な人脈を生かし、有名人を登場させる「技」は大坪ならではのものである。大坪の人生そのものが嵐に翻弄される小舟のような波瀾万丈のドキュメントである。

       
元レーサーの大坪善男は失意のどん底から何度も不死鳥のように蘇った。


「68日本グランプリ」のための模擬レース(68年3月29日)でトヨタ7(3L)に乗り、富士スピードウェイ(FISCO)の30度バンクを走っていたときだった。

アッパーアームが折れ、タイヤが外れ、カウルは吹っ飛び、マシンは横山コーナーの手前まで流された。

思わず目をつぶった。

大坪が死ぬことを覚悟したクラッシュの瞬間だった。


 4回の手術からも奇跡の回復を遂げた。

また、ビジネスにおいても何度も死の淵を見てきている。

大坪がトヨタ自工のワークスを降ろされた理由は何だったのだろうか。

そこから大坪の波瀾万丈物語をひもといてみよう。



関連記事:ボンドガールに代わり、カツラを被って2000GTオープンを運転|レーシング・ドライバー大坪 引退の顛末 Vol.2


 69年8月10日の「NETスピードカップ」(元日本教育テレビ、現テレビ朝日が冠スポンサー)、トヨタのドライバーは練習のために「須走館」に泊まっていた。

鮒子田寛と大坪がボクシングのマネをしてふざけていたら、ボトルが大坪の胸にカウンターで入った。

鮒子田もまったく悪気はない。


 次の日、大坪はトヨタ7でバンクを駆け抜けたら胸に耐えられないほどの激痛が走った。


「66年11月20日の『全日本ドライバーズ選手権最終戦』で私はトヨタスポーツ800に乗っていたとき、ランキングトップの木倉義文さんのホンダS800がスピンしたため激突して、肋骨を10本骨折しました。

でも、その時も重傷にもかかわらずトヨタ自工と契約することができました。

だから、今回のけがも前に比べれば大したことはないだろうと思っていました」
 横浜市の警察病院(現けいゆう病院)へ行くことになった。

大坪はトヨタから支給されているトヨタ1600GTを自分で運転して行った。


 レントゲンを撮ったら肋骨にひびが入っていて、医者に「今回の『NETスピードカップレース』はやめておいたほうがいいですね」と忠告されたという。

大坪は「ちょっと肋骨にひびが入っていますが、平気です」と上層部に報告した。


 最初、大坪が乗ることになっていたトヨタ7には急きょ鮒子田が乗ることになった。

トヨタからは「大坪の健康上の理由で交替した」と発表された。

一番残念がったのは川合稔だった。

ワークスになって以来先輩の大坪と一緒に走るのが夢だった。

それはかなうことのない夢に終わってしまった。

 
「NETスピードカップ」の予選で鮒子田トヨタ7が1分51秒77で見事ポールポジションを獲得。


 鮒子田はヒート1で2位、ヒート2で優勝、総合で2位の川合を抑えて総合優勝を飾る。

鮒子田は丸善ガソリン(現コスモ石油)のコマーシャルに出演していた小川ローザ(70年に川合稔と結婚)から祝福された。

だが、喜びの鮒子田とは逆の悲劇が大坪に起こる。


 上層部の何人かで話し合って、今回の「NETスピードカップ」を大坪は降りることになったが、その報告が尻切れトンボで、東京トヨペットサービス役員の弓削誠(後のトヨペットサービスセンター社長)の耳に入った。

弓削はレースに大きな影響を与える力を持つ役員だった。

詳しい事情を知らない弓削は「なぜ大坪は出場しないんだ。

大坪は生意気だ」と激高した。


「NETスピードカップ」が行われた3日後の8月13日には2台のトヨタ7がFISCOに持ち込まれた。

1台には細谷四方洋と鮒子田、もう1台には川合とダイハツから移籍したばかりの久木留博之が乗った。


 肋骨のひびも癒えた大坪は「69日本グランプリ」の直前の練習に参加した。


「河野二郎さん、池田英三さん(チームトヨタ・レースコンサルタント)がマイクロバスの中に私を呼んで『顔に死相が表れているから日本グランプリに出場させない』と言うんだ。

それを聞いた瞬間『ワークスを辞めるしかない』と一気に頭に血が上りました。

マシンから降ろされることは、私にとってプライドが許さなかったんです。

すぐ水色のクラウンに飛び乗り、御殿場ICから東京ICまで、大声で『ワンワン』泣き続け、涙でシャツがびしょ濡れになりました」
 この時、マイクロバスから出てきたばかりの大坪の話をチームメイトの高橋利昭は聞いていた。

「河野さんとけんかしてきたよ。

頭にきたからやめる」と顔を紅潮させ、目に涙をためていた、と証言する。


 これが大坪がトヨタ自工のドライバーを辞めた理由の1つである。




大坪は映画『ヘアピン・サーカス』のテクニカルディレクターを務めたことで、本格的に映画制作に乗り出すことになる。

このDVDは現在キングレコードから発売中。





大坪が肋骨のひびのため出場できなかった「NETスピードカップ」で優勝したのは鮒子田寛だった。第2ヒートで2番手からスタートする15号車の鮒子田トヨタ7。



掲載:ノスタルジックヒーロー 2011年 10月号 vol.147(記事中の内容はすべて掲載当時のものです)

text:Nostalgic Hero/編集部

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