べレットはスポーティなスタイルで最新技術を満載した べレット(SX)開発責任者 水沢譲治氏に聞く 2

ISUZU SPECIAL PART.2

日本初のFRの4輪独立懸架にかけた いすゞ設計陣 
べレット(SX)開発責任者 水沢譲治氏に聞く 2


日本初のFRの4輪独立懸架車の開発を進めていたいすゞ。
62年1月、メカニカルプロトと第一次試作が完成した。
数多くの問題を克服して、やっと完成した第一次試作だった。お披露目の日が近づいた。



61年12月19日の社長へのプレゼンテーション。左から荒牧寅雄常務と三宮吾郎社長が並ぶ。
プレゼンテーターは伊藤研究部長。その右の鈴木清一デザイン課長と水沢設計係長(右端)。




鈴木課長が運転し、転倒事故を起こした。

 62年9月、べレットの試作車を楠木社長にプレゼンテーションすることになった。場所は川崎の工場内にある6万坪のテストコース。前日に試作車が完成していた。関係者はその日に乗り回したが、デザイン課の3人は前日乗れなかった。プレゼンテーションには実験のスタッフが慎重に運転し、無事終わった。

 ほぼ全員帰った後、デザインのスタッフがようやく乗れることになった。運転は鈴木清一課長、井ノ口と佐藤は後席に乗り込んだ。急ハンドルをきったためクルマは転倒した。また元の状態に戻ったが、屋根はつぶれ、フロントガラスは大破した。コースアウトしたクルマのかたわらで倒れた鈴木課長を佐藤が抱き起こしている間、井ノ口がしきりに写真を撮っていた。鈴木は頭を打ったらしく、顔面蒼白で軽い脳震盪を起こし、いすゞ病院に1週間入院した。

 出社後、担当取締役の伊藤正男に伴われ、「事故を起こして申し訳ありません」とひたすら楠木直道社長の前で鈴木は謝った。「大事な試作車を壊してはいけません」と楠木社長。しかし、楠木社長、伊藤取締役、清水洋三設計部長からはサスペンションの変更の指図はなかった。

 その後、実験課のドライバーも転倒することがあった。転倒に関してあらゆるクルマを調べた。VWもある限界点を超えるとスピンアウトした。SXは馬力もあり、FRだから、その傾向は強かった。しかし、技術陣はバランスがとれる点があるはず、と改良を重ねた。

 乗用車設計課の一係員だった渡部陽(わたなべ・あきら)はコイルバネとは別に、中心を1点でゴムを介してボディに固定し、両端をダイアゴナルリンクと結合した横置きのリーフバネを設けるという画期的な方法を考え出した。コーナリングで足が浮き上がるのを抑えることができるようになった。

 横バネとコイルスプリングとバネレートの組み合わせを何十種類も考え、実験した。スピンアウトの限界を確かめた。あまり柔らかくするとふにゃふにゃになり、滑らないが走りにくくなる。気持ち悪いような挙動をした。一般の人が安全に走れるセッティングにした。

「やはりSXはリジッドアクスルにすべきじゃないか」との声に水沢は一切耳を貸さなかった。表面は温厚だが、芯は強い。意志を曲げない水沢の下で渡部は必死に解決策を模索したのだった。転覆のメカニズムを理論と計算の両方から解析した。

 また、機構研究課の中塚武司が巧妙な方法でステアリングの問題を解決した。ステアリングのシャフトやリンク機構などの剛性を低くし、全体をやわにする方法だった。シャフトを細くしたり、途中に適度な柔軟性を持ったゴムカップリングを設けた。これで操縦感は程よいものとなり、しかも路面からのショックを吸収し、悪路での操縦安定性が飛躍的に良くなった。

 63年6月17日、ベレットとワスプ(小型トラック)は東京プリンスホテルと大阪会館で発表された。 

 水沢は大阪で発表会があった時に、清水設計部長と名神高速道路一部開通した大阪・茨木付近で最高速度137㎞/hをマークした。水沢はチャンスとばかりアクセルを全開にした。140㎞/hちょっと手前で針はぴたっと止まった。

「これはスゴイ!」と2人は驚嘆した。コロナやブルーバードの最高速度が140㎞/hになったのは1年後だった。


 

日本初のGTは若いスタッフが名付けた。



 64年4月6日、べレット1600GTが発表され、4月28日に発売された。ライバルのスカイラインGTは3日遅れ5月1日に発売された。もっとも1500GTは63年10月の全日本自動車ショーに出品されていた。GTの名前は若いスタッフの田村匡が考えた。田村はイタリアが好きで、GTという名前をつけようと上層部に提案した。グリーンハウス(窓ガラスで囲まれた部分)を変更し、車高を約80㎜下げ、シートを下げ、ギアチェンジをリモートコントロールにして、低姿勢で運転できるようなGTを造った。

 65年、ラルフ・ネーダー(自動車産業を告発した社会運動家)が「GMのコルベアに欠点が多い」と告発していた。スイングアクスル式後輪サスペンションによりコントロールを失い、スピン、さらには横転する傾向があると主張した。これはベレットが発売された2年後のことだった。

 販売部門からの要請もあって新発売から3年後の66年11月、後輪にリジッドアクスルを採用したBタイプが発売された。フロントスタイルもギア社が担当した異形角型ヘッドランプになった。従来型のダイアゴナル・リンクはAタイプと呼ばれて生産が続行された。

 69年10月、いすゞ117クーペに搭載されていたG161W型DOHCエンジンを搭載した1600GTRが発売され、モータースポーツで活躍した。




 ベレットと並行して、ベレルの後継車(150)が計画された。デザインはギア社のコジョラが担当。しかし、150計画は中止され、そのデザインは117サルーン(フローリアン)に流用された。ギア社には有望新人のジョルジョット・ジウジアーロがいた。ジウジアーロは「117サルーンのシャシーがあるのなら、美しいクーペを造ったらどうか」とレンダリングを持ってきた。間髪入れず岡本利雄社長は「やってみよう」ということになり、66年3月のジュネーブショーに間に合わせ、「ギア・いすゞ117スポーツ」が展示された。7月のイタリア国際自動車エレガンス・コンクールで見事名誉大賞を獲得。10月の第13回東京モーターショーにも出品され、大反響だった。早く乗ってみたいという声が大きくなった。経営状況が良くなかったがなんとか造ることになった。

 66年暮れ、ジウジアーロは日本人の宮川秀之らとイタルスタイリングを設立。いすゞ117スポーツを持ってギアから移籍した。

 66年10月、いすゞ117サルーンは、第13回東京モーターショーに出品され話題になった。

 68年12月、いすゞ117クーペが発売されることになった。

 70年3月、日産と提携が発表された。日産のチェリーバンが藤沢工場で生産された。

 その後も水沢は乗用車を担当し、82年副社長に就任したあと会長を89年から92年まで務めた。




66年11月に発売されたBタイプ。リジッドアクスルでギアデザインの異形角型ランプが特徴だった。




当時一係員だった渡部陽はダイアゴナルリンクと結合した横置きリーフバネを設けるという画期的な方法を考え出し、コーナリングでの転倒を防いだ。


 *文中敬称略

cooperated by ISUZU MOTORS LIMITED/いすゞ自動車
参考文献=鈴の音


掲載:ノスタルジックヒーロー 2010年12月号 Vol.142((記事中の内容はすべて掲載当時のものです)

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